2022-12-13

QED進学塾の高校受験生(R)~学びて思わざれば

QED進学塾の高校受験生のRくんは、物事の意味をよく「考える」習慣が身に着いています。
そのため、Rくんの思考力は順調に伸長しています。
それに対して、Rくんは、思考に必要な知識、すなわち思考を組み立てるための材料となるべき基礎知識を「覚える」ことが苦手です。

昨日のQED日誌の記事に塾長は、『説明したり、ずっと身に着けておいたり』がRくんの不得手とするところであるという趣旨の文を書きました。
塾長は、今日のQED日誌にそのことについてもっと詳しく書きたいと思います。

ある物事を「説明」できるということは、その物事についての必要な知識をその意味するところも含めて正確に「覚えて」いるということです。
そして、エビングハウスの忘却曲線が示すように、完璧に「覚えた」と言えるものは何十年経っても覚えているもので、おそらく一生忘れることはないでしょう。

たとえば、塾長が14歳のときに暗唱した、松尾芭蕉の『奥の細道。』
当時塾長は、1か月間毎日暗唱を続けたものでした。
その結果、それから41年が経過した今でも暗唱文を覚えています。
何十年経っても忘れないのは、30日間の「反復学習」と「分散学習」の効果であると塾長は考えています。

前回授業で塾長は、Rくんに「(英語の否定文・疑問文の作り方と面積公式とを)1か月間毎日覚えよう。」と言いました。
しかしながら、Rくんは「一生できそうにない・・・」と、自らの自信のなさを正直に話してくれました。

最初から「できない。」「無理だ。」と思っていることを、ただひたすら1か月間継続するという苦行に、人は耐えることができません。
ですから、塾長は、まずはRくんが「できる。」と思ってくれることが、それが根拠のない自信ではなく裏付けのある自信であることが、必要不可欠なのではないかと考えました。
それは、Rくんの口から出た「一生できない。」という単語を、塾長が重く受け止めての考えでした。

学びて思わざれば則ち罔く、思うて学ばざれば則ち殆し。
これは、論語の一節です。
「学ぶこと」すなわち基礎知識をまず「覚える」こと、
そして覚えたことを材料にして自分の頭で「考える」こと、
その両方が大切なのだと、孔子は説いているのです。
塾長がこれを意訳するならば、「『覚える』と『考える』は学問の両輪。」です。

つづく

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