2020-05-26

QED進学塾の小学5年生~昨日の国語

QED進学塾の小学5年生は、昨日国語を1時間学習しました。
国語の授業時間は40分間の予定でしたが、学習すべき内容が予定よりも大幅に増えたため、1.5倍の60分間に急遽拡大したのです。

【本文からの抜粋】
これはもっとも、文学作品の中にも見いだすことができる。
【問題】
『これ』の指す内容を「A」という言葉を使って50字で書きなさい。

抜粋したたった1行の中に、児童にとって難しい言葉が2つ含まれていました。
その言葉は『文学作品』と『見いだす』の2語です。
児童は、この2単語の意味をまず学習しました。

もし、何十行もある文章中に知らない言葉が2つあったとしても、その2語のおおよその意味を前後の文章から推し量ることができれば、読解するのに差し支えはありません。
しかし、短文1行に分からない言葉が2つあれば話は別で、文意を理解することは困難です。
そのような状況を回避するためには、語彙力を増強するよりありませんが、それは一朝一夕にできることではなく、文章を読みこなすことを地道に積み重ねて行く必要があります。
読解力が読書量に比例するのは、昔も今も変わらないのです。
知らない言葉は辞書で調べたりしながら、やや難しめの文章を数多く読んでほしいところです。

語彙力増強には時間がかかりますが、文法力を養うことはそれより短時間でできます。
そして、文法力は読解問題を解くのに大きな助けとなってくれます。
とある予備校の英語講師が「英文法の力を長文読解に生かす」ための問題集を出版していますが、「文法→読解」は国語学習においても有効な作戦なのです。

児童は、この【問題】が何を要求しているのかを把握するのに苦労していました。
塾長は、児童が問題文の『これは』を主語だと勘違いしていることに気付きました。
苦戦の原因はそこにあったのです。

国語の小学4年生の履修範囲に「作文の書き方」という単元があります。
(例)いつ どこで だれが なにを どのように どうした。
児童はこのような形で文の構成要素を学びます。
また、「述語」「主語」「修飾語」といった文法用語も学びます。

児童は、昨日の授業で上記を復習したのち、抜粋文をもう一度読み返しました。
【本文からの抜粋】
これはもっとも、文学作品の中にも見いだすことができる。

述語=『できる』→だれが?なにが?→『見いだすことが』=主語。
述部=『見いだすことができる』→だれが?なにが?→「人が」=主語。

児童は、この2行を学習して気づきました。
『これは』は、主語ではなく、修飾語であることに。
『これは』は、「作文の書き方」の「なにを」に該当する言葉(目的語)であることに。

ここまで来れば、抜粋文の1行を理解することは簡単です。
『これは』→『これを』
人は『これを』見いだすことができる。

つまり、『これ』という指示語の内容が問われている本問は、「人は『なにを』見いだすのか具体的に答えなさい。」という問題だったのです。
見いだす=見つけ出す→「なにを」見つけ出すんだろう?
このように考えることができれば、解ける問題なのです。

「分からない」ことは悪ではありません。
ですが、「何が分からないのかが分からない」のは大問題です。

1.問題文や本文に用いられている単語そのものが分からない。
2.単語は分かるけれど、問題文が何を要求しているか(何を問われているか)が分からない。
3.何を問われている問題なのかは分かっても、その答えが本文中のどこに書かれているのかを見つけられない。
4.書かれている場所は見つけられたのに、それを答案にどう書けばいいのかが分からない。

国語の読解問題(記述式問題)の「分からない」を細分化したのが上記の4つです。
この4段階のうちのどこで躓いているのかを突きとめ、その原因をひとつひとつ解決していくこと、それこそが「学び」であると塾長は思うのです。

そのような学習を積み上げて行くには時間も労力もかかります。
しかしながら、そうやって積み上げた基礎学力は堅固な土台となり、容易に崩れることはありません。
逆に、学問の本質とは無縁の受験テクニックをいくら詰め込んだところで、それは砂上の楼閣に過ぎず、崩れる去るのは一瞬です。
どちらが学力伸長の近道かは自明です。

0 件のコメント:

コメントを投稿